「白川太郎の実践!治るをあきらめない!」放送内容1/10 自己紹介その2 臨床研修~産業医まで 苦悩を超えて
1/10の放送は「自己紹介その2 臨床研修~産業医まで 苦悩を超えて」
大学を卒業した白川先生は臨床研修をするという日下先生との約束で
京都大学の医局に入った。
当時、粉塵を浴びて肺が壊れるという塵肺で
トンネル工事などの労働者が悲惨な目に合って苦しいる人が多く
これを何とかしようということで、
呼吸器の勉強をして来てくれということで
結核胸部疾患研究所第一内科に入った。
主に結核を看る部署であったため、
当時は、結核といえば不治の病で
バタバタと人が死ぬという状況だった。
なので、母親がそこだけはやめてくれと泣いて頼まれたが、
日下先生との約束なのでという一言で押し切り入局した。
毎日、毎日大勢の患者さんを看て来たが
結核で肺がぼろぼろになって呼吸不全で入って来る患者さんを
誰一人助かることなく、見送るばかだった。
人間の死で一番苦しいのは
実は窒息死。
痛みがひどいのはモルヒネなど痛み止めでなんとかなるが
酸素が入らないという苦しみはどうにもならない。
結核で肺がボロボロになった患者さんは
酸素の吸入器を吸いながら
朝から晩までベッドに両手をついて
ひたすら痰を出し、2~3ヶ月で亡くなって行くというのをずっと見送ってきた。
本当にくらい医局で誰一人助からず、
今日より明日は元気になるよと言える人もいない状況で
呼吸器の医者として自分は何も出来ないという無力感に初めて接して
本当につらかった。
肺がんの患者さんも、悲惨極まりなかった。
最初の患者さんは、「先生、息が苦しい」と先生のワイシャツのを両手で掴んだまま絶命され、
目の前に小さな子どもさん二人がおんおんと泣く中、
どうすることも出来なかった。
その頃、抗がん剤が日本に入って来て
これで患者さんを救えると
毎日毎日徹夜で英語のマニュアルを読み
希望を持って治療に望んだのだ。
手術をして抗がん剤を投与した患者さんは大勢助かったものの
手術がかなわず抗がん剤を投与した場合、殆ど助かった患者さんはいなかった。
はじめのうちは、抗がん剤の効き目に自信があって、
いやがる患者さんにも勧めていたが
それすら自信がなくなり、
患者さんの好きなように任せるしかなくなってきた。
抗がん剤を投与した患者さんより
しなかった患者さんの方が長生き延命しているという事がわかり、
これはもうダメだ
これ以上臨床の医者をやっていたら、
世の中の為になる事は何一つ出来ない。
肺は一度壊れたらもうどうしようもなく、
今のように再生医療がこんなに早く進むとは思わず、
これはもう予防の研究に戻ろうと考え
呼吸器に関しては、予防医学をやらなくては健康を取り戻したり
健康を維持したりすることは出来ないと痛いほどわかり
日下先生に頭を下げて大阪大学に移ることになった。
そして必死になって勉強をやり始めた。
塵肺の研究をしていたので
まず、肺のレントゲン写真をきっちり診られるようになる事が重要。
患者さんが塵肺の認定を受けられるように標準フィルムのどれにあたるかを
見極められる力が必要だった。
二人で何千枚のフィルムを並べて診て
毎日毎日、日下先生の見立てに白川先生の見立てが一致するようになるまで
一年もかけて、ようやく一人で任せてもらえるようになった。
そこで産業医として大阪のとある工業を担当する事になった。
詳しくは番組を聞いて下さい。
1/10 9:50~ (再放送 1/11 9:15~ )
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